夏・秋アニメの感想は延期です。
別名、まおゆう二話が俺の神経を凄く逆撫でしまくってる問題。
ここ数日、twitter上で(個人的に)吹き上がったまおゆうメイド長の「虫です」発言について。
何が問題かというと、三点あって。
① 「自分の運命を自分で掴む」というのが『強者の理論』である
「強者の理論」「強者の正論」。言うことに一面の正当性はあるが、もれなく弱者が敗者になる論理。
わかりやすいところだと、(肯定的な)弱肉強食もそうだし、「狼は生きろ、豚は死ね」がまさしくそれ。
そして、私は強者の理論が嫌いだ。何故なら、それが自己中心的であり、それを言えるのはそのルールで勝てる人にしか許されないからである。
メイド長の発言はまさしく「(自分の運命を自分でつかめるほど)強くあらねば人にあらぬ」。
アニメではないが、原作では「私と同じ仕事をしながら、自らの手に運命をつかむことの出来ない。その弱さは、灼かれて死んで償うべきかと思います」とまで言っている。
これは現実社会で例えて言うならブラック企業に勤めている人に「なんで辞めないの」「そこに入ったのが悪い」と言っているようなもので、それこそタイトルの「「きがるにいってくれるなあ。(CV:水田わさび)」という話になってしまう。
……もっとも、アニメでは>>291が丸っと抜けているわけで、これを入れると「ブラックを辞めない人を外から批判する人」ではなく「(ブラック)社員の『意識の低さ』を責める『意識の高い』社員」という、おぞましくその辺にたくさんいる人になっちゃって、これはこれで生温かい目で見ざるをえないのですが。
② 実利が道徳の話に摩り替わっている
ツイッターでこの話をしている時に、「魔王に助ける義理はない」という反論があった。
実際その通りで、メイド長も「付近の有力者との関係が悪くなる」旨から通報して引取りに来てもらうことを勧めている。
問題はそのあと。それがいつの間にか「私は虫が嫌いです」という好悪、ひいては道徳の話にすり替えられている。
最もどす黒い感情が沸いたのは、その後のメイド長の「謝罪を」という謝罪要求。
あれは「悪い事したらごめんなさいしないといけないよね」という意味ではなく、「立場が上の人間が立場が下の人間に自分の立場を証明させる」という現実社会でも(主に労働関係・クレーマー・ヤのつく職業などで)よく見られる光景。
それはその後の「それだけですか」「私たちをニンゲンにしてください」という流れからも理解出来る。
「労働に見合った金銭を貰う」という契約が愛社精神や職業倫理といった話にすり替えられ、「例え安い金額でも出来る最高の仕事をしないといけない」という話になるよくある現象に似ている。
後者ふたつのおかしさについては今更言うまでもない。
③ カウンターを封じた=『世界』が彼女の理論を「全肯定」している
①で述べたとおり、「自分の運命を自分で掴めない存在は虫」というのは強者の理論であって、弱者には受け入れがたい論理だ。
実際、私自身そうであるし、私は原作を読んでいないので、原作が発表された当時は触れていなかったのだが、それでも当時からかなり吹き上がっていた。
ほとんど興味が無い私でも諸々の感想・意見・批判・反論を見た。というよりは、目に入った。
(その中でも、(読んではいないが)批判意見に共感する部分が大きかったので「まおゆう」という作品そのものを色眼鏡で見ていることは否定しない)
作中人物にとっても受け入れがたく、メイド長の「乞食でもしますか」って言葉に対して「やれるよ、出来るもん!」って言ってる。「厚意にすがって迷惑かけるのがあなた達農奴のやり方ですか?」ってのに対して「だって」と反論を試みてる。
これはある意味では魔王の庇護にあり、弱者に落ちることのなかったメイド長には絶対にできない発言であると断言できる。
人の善意にすがるやり方は、一部の人にとってはおそらくは許せないものであり、そしてメイド長もその「一部の人」の典型例ではあると思う。
フィクションでも「誇りをなくすぐらいなら死ぬ」という台詞等は多いパターンだ。
しかし、妹は誇りや生活を捨て「なんでもやるもん」と言った。
生きるために何もかもを捨てる覚悟がある、というのは強者には絶対にできない弱者の強さだ。
しかし、メイド長はそれを「何を馬鹿な」と一蹴し、妹が再度反論を試みたときは無視して一顧だにしなかった。
この点において、メイド長は「飢えたことがない」軍人師弟たちと同等の存在であるといえる。
にも関わらず、作中ではメイド長は肯定的に、姉妹は否定的に描かれている。
……道徳の話ではあるのでどちらかが否定されるのはある程度しかたない。
しかし、そういった「表裏一体の道徳」には必ず逆の理論が存在し、妹が言いかけたことこそまさに逆の「表裏一体の道徳」だったのではないだろうか。
そういったカウンターが用意されているにも関わらず、言葉の足らずの幼い妹に語らせることによって論理性をなくし、果てには無視する。
このやり方は「都合の悪いことは聞いてないふり」と同じだろう。
……ただ、まおゆう自体が「魔王勇者ファンタジーのアンチ」的な側面があるわけで(魔王勇者ファンタジーが果たしてベタかどうかはさておき)、
この一件についてもファンタジーのお約束への反抗である可能性はある。
中世ファンタジーでは多いのだが「虐げられる哀れな領民」と「横暴な貴族」という関係性。
魔王(勇者も)は身分で言えば後者に当たるのは明らかで、彼らを否定しないためには前者の解釈をどうにかする必要はあったのかもしれない。
……もっとも、それはそれでやり方はあったと思うし、そういう言わば被害者面の「汚い生き方」を安易に否定するのは「綺麗な生き方」が出来るものの特権であって、そういう「哀れな領民」を結局見下している自覚の無さが腹が立つのだが。
……嫌なら見るな、精神衛生に悪い、という心の声が聞こえてくる気がする。
でも、ビジュアルの雰囲気はすごくいいんだよなぁ。
書籍やスレだと多分どんなに行ってもここで不快感で切ってたとは思うんだけど。
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